(1)


「…クル、おい、大丈夫か?」
オラトリオに揺り起こされ、オラクルは目を覚ました。身体が震えている。
「オラトリオ…」
縋るように抱きついてきたオラクルを、オラトリオはしっかりと、抱きしめた。オラトリオと一緒に暮らすようになってからは、滅多に見なくなった悪夢。それでも、完全に克服できた訳では無い。
 完全に克服する事など、出来はしないのだろう。何があったのか、今では判っている。事故などでは無かった。それが判っても、何も変わりはしなかった。形の無い悪夢に、死んでしまいたい程の強い恐怖に、苛まされる事は。

 オラクルは、深く、息を吐いた。どうにか、震えは収まった。オラトリオが優しく髪を撫でてくれる。
「落ち着いた…か?」
静かに、オラトリオは聞いた。心地よい程度に低く、柔らかな声。その声を聞くたびに、オラクルは安堵感を覚える。こうして、オラトリオが側にいてくれる事が嬉しい。
「…うん」
「__って、俺は落ち着けなくなったけどな」
「__え…?」
無邪気に聞き返した盲目の恋人に、オラトリオは身体を重ねた。
「…駄目だよ、オラトリオ。もう、明け方だろう?今日は朝から講義が__」
口づけで、オラトリオは相手の抗議を封じた。こんな風に素肌を触れ合わせていて、理性を保てという方が無理だ。増してや、何年も前から想い続け、やっと結ばれたばかりの相手であれば。
「時間までには、ちゃんと起こしてやるって」
「駄…目…。離し__」
オラトリオの指と唇とが、オラクルの白い肌の上を這う。オラクルは甘い声を上げ、形ばかりの抵抗は、すぐに影をひそめた。
 2人がお互いに夢中になるまで、そう、長くはかからなかった。

「…クル。そろそろ、起きろよ。飯、出来てるぜ」
そっと、揺り起こされ、オラクルは目を覚ました。ぐっすり眠って目覚めた時の爽快感がある。悪夢を”見た”翌朝に、こんな気分になれるなんて、以前では考えられなかった。
「…今、何時?」
「11時、ちょい過ぎってとこかな」
オラトリオの言葉に、オラクルは慌てて上半身を起こした。華奢な肩と白い腕が、露になる。
「ひどいじゃないか。起こしてくれるって言ってたのに」
「悪ぃ。俺も寝過ごしちまったんだ」
「だから、駄目だって、言ったのに…」
怒って言うオラクルの頬を、オラトリオは軽く、突ついた。
「そんな、可愛い顔して怒んなよ。又、理性がぶっ飛ぶじゃねえか」
オラクルの白い頬が赤らむ。そして、毛布で肩を覆った。反論したげだが、言葉が出てこない。
「服着て、顔洗って来いよ。飯にしようぜ」
軽く笑って、オラトリオは言った。

 オラトリオは午後の講義があるので出掛け、それが無いオラクルは部屋に残った。録音してあった講義をパソコンにインプットし、点訳機から打ち出す。そうやって作ったノートの上を、白く華奢な指でなぞっていた時に、チャイムが鳴った。
「ご機嫌いかがですか?オラクル」
「クオータ…どうして、此処が…」
オラクルは、思わず眉を顰めた。此処に越してからひと月も経っていない。オラクルとオラトリオ、二人の身内の他に、此処を知っている者はいない筈だった。
「午前の講義に来なかったでしょう?体調でも崩したのかと、心配して来て見たのです」

 一般教養課程の時、クオータは常にオラクルの隣に席を占めていた。それぞれの専攻に分かれた今、常に一緒という訳では無い。それでも、幾つかの講義は共通して受講する。そんな時、クオータはいつもオラクルの隣にいた。そして、何かと、世話を焼く。オラクルはその事に、感謝してはいた。が、それでも、そしていつになっても、クオータに親しみを感じる事は出来ない。

「それでは、質問の答えになってないよ」
「話すのは中でも良いでしょう?それとも、私は締め出されたままなのですか」
クオータの言葉に、オラクルは渋々、相手を中に入れた。
「午前中、姿を見せなかったから、具合でも悪いのかと思ったのですけどね」
「…そういう訳じゃないよ」
クオータは、片方だけの碧い瞳で、視線をオラクルの首筋に這わせた。オラトリオの付けた跡が、オラクルの白い首筋に生々しく、残っている。オラクルは気づいていないのだろうが、それはクオータの狂暴な感情を煽るのに充分だった。
「…その様ですね__此処には、オラトリオと一緒に住んでいるのでしょう?」
クオータの言葉に、オラクルは眉を顰めた。
「…お前には、関係の無い事だよ」
「いいえ…無関係ではありません。何故なら__私はまだ、あなたを諦めてはいないから…」

 2年前の記憶がオラクルの脳裏に蘇り、不安を喚ぶ。クオータの口調は静かなままだが、強い情動のさざめきが感じられる。眼が見えない分、他の感覚が鋭敏であるオラクルには、それがとてもはっきりと感じられた。

「…私は__」
「オラトリオを愛しているのでしょう?判っていますよ。2年前には、あなたは否定していましたけれどね」
殆ど、抑揚の無い口調。感情を押し殺している様な…。オラクルは、息苦しさを覚えた。
「そしてオラトリオもあなたを愛しているのだと、無邪気に信じている」
「…帰ってくれないか」
眉を顰め、オラクルは言った。これ以上、クオータの言う事を聞いていれば、引きずり込まれてしまうだろう。クオータの、強い情動に。恨みと嫉妬と憤りと孤独とに…。
「あなたとオラトリオは3歳から15年間、同じ家に住んでいたのですよね。そして今は別の意味で、一緒に暮らしている。それでも、あなたはオラトリオの事を、どれ程も、知ってはいないのですよ」
クオータの言葉に、オラクルの不安が増した。一体、クオータは何を知っているのか…?

「例えば、あなたが彼の初めての恋人では無いこと」

オラクルの手が、ピクリと震えるのを、クオータは見つめた。獲物を狙う蛇のような目つきで。
「最初で無ければ最後でも無いのでしょうね。オラトリオには、他に選ぶべき相手がいくらでもいるのですから」
黄金の髪、紫水晶の瞳。恵まれた資質と奢らぬ優しさ__誰もが、賛美して止むまい。
 そう、誰もが。
「酔いが覚めれば、彼はきっと、後悔するでしょう。あなたという重荷を抱えてしまった事を。心変りしても、あなたを棄てるのは難しい。子供の頃から一緒にいた相手だし、何より、あなたの眼が見えないから」
そうなった時に、彼がどれ程、負担に感じると思いますか?__クオータの言葉は、鋭い刃物の様に、オラクルの心を抉った。

――オラトリオは全てに恵まれている…オラトリオではあなたを理解できない…誰もが、眼を背けます…
 はらわたが煮えるような恨み、血がたぎる程の嫉妬、望みが叶わぬ事への憤り、心を凍えさせる孤独__

「止めてくれ」
やっとの思いで、オラクルは言った。
「何故…お前は私を苦しめる…?」
「苦しめたい訳では無いのですよ。以前にも、そう言いましたが」
クオータは、オラクルの手に、自分のそれを重ねた。オラクルは振り払おうとしたが、却って強く、握りしめられた。
「私はただ、あなたに私の事を、考えさせたいだけです。あなたが独りでいる時に、私の事を思い出して欲しい。私がいつも、あなたを想っているように…」
オラクルは強引に相手の手を振り払い、席を立った。ソファから離れ、壁に手をつこうとする。
 が、あるべき所に壁は無かった。此処に引っ越して間も無い為、動揺が、感覚を鈍らせたのだ。方向感覚を失い、オラクルはパニックに陥った。住み慣れた家の中だけが、唯一、自由になれる場所だ。杖に頼らなくとも、安心して動ける。
 が、今、その唯一の聖域が、見知らぬ危険な場所と化している。
「…落ち着いて下さい、オラクル」
「私に近寄るな…」
オラクルは、クオータから逃れようとした。無闇に歩き回り、僅かな段差にころびそうになった。かろうじて、ドアで身体を支える。玄関に行き着いたのだ。が、外に出るのは危険だ。その想いに、躊躇いが引きずられる。それに付け込んだかの様に、クオータはオラクルを抱きしめた。
「__放せ…」
「外は、危ないですよ、オラクル…」
意外に思える程、強い力で、クオータはオラクルを抱き竦めた。
「厭だ。放せ__オラトリオ…!」
思わず、オラクルは呼んでいた。オラトリオの、最愛の者の名を。クオータが、僅かに眉を顰める。
「何故…私ではいけないのです?」
「離してくれ、厭だ」
「何故…私ではいけない…?」
強引に、クオータはオラクルに唇を重ねた。

 暫くの間、クオータはオラクルを抱きすくめていた。オラクルの、身体の震えが止まらない。片眼鏡が、床の上に落ちている。オラクルの華奢な手がクオータの頬を打ち、それは、床に落ちたのだった。
「…離してくれ…」
改めて、オラクルは言った。
「あなたを動揺させるのは、私の本意ではありませんよ」
まるで、動揺する方が、悪いと言わんばかりの口調。
「手を離しますけどね、外に飛び出したりしないで下さい。危ないですから」
飽くまで冷静な口調で言って、クオータはオラクルを放した。オラクルは、壁伝いに相手から離れた。ようやく、方向感覚が戻る。
「驚かせてすみませんでしたね。今日は…帰ります」
床から片眼鏡を拾い上げ、クオータは言った。


 程なく、玄関のドアを開けようとする音が聞こえた。オラクルは不安を覚えた。クオータが出ていってすぐに、ドアをロックし、チェーンも掛けた。が、それでも不安に変りは無い。
「オラクル、いるのか?」
聞きなれた声に、オラクルは安堵し、チェーンを外しに玄関に向かった。
「いらっしゃい、コード」
「珍しいな、昼間から鍵を掛けるなぞと__では矢張り、あの男が来ていたのだな」
この部屋から出ていく者の姿を車から見かけたのだと、コードは付け加えた。何故、ここの事を知っているのか判らないけれどと、オラクルは言った。
「此処を突き止めるのに、お前の後を尾けでもしたんだろう。今度、見かけたら、ただでは済まさん」
「…そんな乱暴な事、言わないでよ」
躊躇いがちに、オラクルは言った。不安は、まだ後を引いている。出来れば、2度と、クオータには会いたく無い。
「前にも言ったが、お前は甘いぞ、オラクル。優しくすれば付け上がる相手には、毅然とした態度を取るべきだ。何より、あの男には強い邪気がある。近づけさせるべきでは無い」
コードの強い口調に、オラクルは俯いた。コードの言う通りなのだと思う。そう、思いながら、何かがふっ切れない。
――拒まないで下さい、私を…
歪んだ感情だと言ってしまえばそれまでだ。相手を苦しめる事で関心を引こうとするなどと、好意とは呼べない。
――あなたに拒まれたら、私は…
冷酷さに隠されたクオータの孤独。それを、オラクルは無視できなかった。自分も、孤独だったから。闇の中にたった独りでいる様に、感じずにはいられない頃があったから。

 コードが帰ると、オラクルは一人になった。いつもより、オラトリオの帰りが遅い。オラクルは時計に手を伸ばし、スイッチを押した。
『ただ今、5時35分です』
録音された声が、再生される。もう、さっきから、1分おきくらいにその声を聞いていた。
 講義は4時頃に終わっている筈だ。いつもなら、講義が終わって1時間くらいでオラトリオは帰ってくる。オラクルは、軽く溜息を吐いた。高々、30分の事なのだ。少し、買い物に時間が掛かっているだけなのだろう。
――彼はきっと、後悔するでしょう。あなたという重荷を抱えてしまった事を

 考えまいとしても、クオータの言葉が頭から離れない。
 こんな暮らしはいつまでも続けられないと、思ってしまう。身の回りの事も何も、全てをオラトリオに頼り、全てをオラトリオに任せている。世間的にも認められない関係。それは、クオータが相手でも、同じなのだろうけれど。
『ただ今、5時36分です』
――俺様の所に来れば良い

 不図、コードの言葉を思い出した。もし、オラトリオに新しい恋人が出来たら…そんな空想を、オラクルは弄んだ。でも、コードにも、好きな人がいるかもしれない。縁の薄い弟より、大切なひとが。
『ただ今、5時37分です』
――例えば、あなたが彼の初めての恋人では無いこと

 そんな事は、考えてもみなかった。だが考えてみれば、当然であるようにも思えた。それでも、意外ではあった。ずっと一緒に暮らしていたのに、オラトリオにはそんな素振りなど無かったから。気づかなかっただけなのかも知れないが。
『ただ今、5時38分です』
――あなたはオラトリオの事を、どれ程も、知ってはいないのですよ

お前に、何が判る…?オラトリオは、いつも話してくれる。その日、何をし、誰と会い、何処へ行ったかを

『ただ今、5時39分です』

話さない事も、あるのだろうけれど__例えば、私が彼の初めての恋人では無いこと…



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